立本寺

灰屋 紹益 墓

灰屋 紹益の墓は日蓮宗立本寺の境外墓地の西南隅にあります。墓石は笠石をのせた幅の広い花崗岩製で、表面中央に「南無妙法蓮華経」としるし、その左右に灰屋一族の戒名が刻まれています。紹益の名は中央よりやや左に「古継院紹益日今」とあり、その下に細字で「元禄四年十一月十二日」と没年月日が刻まれていますが、その文字は今は殆んど摩滅し、よく判読することができません。また左右には父紹由や紹益の妻の戒名がありますが、紹益の愛吉野大夫の名はみあたりません。紹益は佐野重孝といい、慶長十五年(1601年)本阿弥家に生まれましたが、佐野家の養子となり、通称灰屋三郎兵衛といいました。佐野家は南北朝時代より子孫代々紺灰を業とし、屋号を灰屋といいました。角倉・茶屋・後藤と相並ぶ江戸前期の京都の上層町衆を代表する家柄です。従って彼は単なる一介の商売人ではなく、書を本阿弥光悦、和歌を松永貞徳、蹴鞠を飛鳥井雅章、茶の湯を千道安に学んだ当代一流の文化人でもありました。かつて吉田大夫を贔屓にし、近衛信尋と張り合い、ついに吉野を身請けしたことは、当時にあってもっとも世間の噂になりましたが、またそれとともに吉野が三十八歳で若死にしたとき「都をば花なき里になしにけり吉野を死出の山に移して」とその死を悼んだ歌によって、さらに一層有名になりました。紹益は吉野の死後、永生きし、元禄四年(1691年)82歳の高齢で没しました。なお吉田大夫の墓は、北区鷹ヶ峰の常照寺にあります。

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